テキサス・チェーンソー・ビギニング

テキサスの暴れん坊

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ハリウッド製ホラーの主客倒錯が顕著になってきたのは、80年代のホラー・ブームの頃からかなあ。それまでは、いかなる恐怖映画といえど主人公はあくまで人間。身の毛もよだつ恐怖と対面した人間が、いかにその恐怖に打ち克つかを描くのが基本的なパターンだった気がする。多くはオカルト・ホラーだったし、神と悪魔の戦いといった宗教的テーマも見え隠れしたものだったしね。まあヒッチコックが『サイコ』(60)によって開拓したサイコ・キラー(またはシリアル・キラー)という、どっちかというとスリラーに近いジャンルも綿々と続いてはいたけど、そこでの殺人鬼たちはモンスターと呼ぶにはあまりにも人間的なんだよね。いずれにしても、ホラーだって「人間」を描く手段だったのよ。
 
ところが、74年にトビー・フーパーが『悪魔のいけにえ』を成功させたことに驚いたハリウッドは、モンスターと闘う人間より、モンスターそのものの魅力を中心に据えた映画を、(隠れた真の主人公…などというレベルを超えて)徐々に量産し始めた。あとはとにかく大量の血。リアルな人体破壊描写。まさにスプラッター時代の幕開け。
勿論、それまでもドラキュラや狼男やフランケンシュタインの怪物といった、モンスターが主役と言って良い作品も多く存在はしたけどさ、それらの映画はモンスターと対峙する人間ドラマもそれなりに重要な要素だったからね。
 
それが80年代を境に、この手のホラーでは「人間」が全くの脇役になっちゃった。彼らに与えられた役回りは、単に逃げ回り、出来るだけ無惨な死に様を表現することだけ。若者を憎むホッケーマスク男や、殺人鬼が乗り移った人形、他人の夢にしゃしゃり出てくる鈎爪男などがシリーズ化され、彼らと敵対する人間は、あっさり殺されるただの使い捨てキャラ。世紀末を乗り切ったハリウッドはオカルトを捨て、モンスター(て、大半は彼らも人間なんだけどね)たちがその残虐性を競う場となった…てな感じ。
 
だから何だ、という話はここではどーでもよくて、単に『悪魔のいけにえ』が現代まで続くスプラッタ・ホラーの原点の一つであるということを強調したかっただけ(笑)。なんか書き出しに失敗して話が逸れすぎたわ。めんどくさいから修正しないけど。まあ、先日書いた『デビルズ・リジェクト』にしたって、その前作である『マーダー・ライド・ショー』だって、『悪魔のいけにえ』に対するリスペクトから生まれた作品だしね。
 
てなわけで、そのリメイク『テキサス・チェーンソー』(03)の続編(“ビギニング”なんで時代的には前作より過去の話)である本作も、犠牲者たる「人間」は単なる道具
しかも『テキサス・チェーンソー』一家の過去を描く作品だから、「人間」たちの末路も先読み可能。だって『テキサス・チェーンソー』で家族仲良く人殺しを楽しんでたってことは、本作で彼らに捕まった「人間」は誰一人逃げられなかったてことだからね。一人でも逃げおおせてたら、警察に通報してるだろうし。
つまり、本作ではキチガイ家族に捕まった若者たちの誰かが辛うじて脱出する、などという一抹の救いすら(最初から)期待出来ないの。みんな殺されるの。あとはいかに残酷に殺されるか、というその殺され方(の恐怖)を楽しむだけ。
 
て言葉にすると、ものすごくおぞましい世界だけど(笑)、この手のホラーを見慣れている人には実にツボを心得た作り。このジャンルに関する大先輩のSycoさんは「実家に帰って母の手料理を頂くような気分」と言い切ってたし。確かに全てが先読み可能で、好きな小説を何度も繰り返し読んでいる時のような感覚に陥るのよ。これまで幾度となく観た光景が、新しい映像で蘇る感じというか。ホラーを純粋なフィクションとして楽しめる人には、それなりに見応えあるでしょう。ていうか、なんだかんだいってマイケル・ベイ(プロデューサー)は各ジャンルの、一般受けするツボを知ってるね(個人的にこの人の作品はイマイチなんだけど)。ジョナサン・リーベスマン監督の、いかにもホラー・オタクらしい演出も見事。『13金』最新作もがんばれ。
 
もっとも、いろんなところで未だに(『悪魔のいけにえ』を)、「実在の殺人鬼、エド・ゲインをモチーフに猟奇的殺人一家を描いた映画」と紹介しているのはどうなのかね。トビー・フーパー自身が最近のインタビューで否定してたじゃんか。映画評でそう指摘された後にその類似性に気づいて驚いた、て。しかも「これは事実を元にした映画だ」…みたいなテロップも、そのほうがリアリティを生む気がしたからで、実は全くの嘘だったんだよん、て(笑)。
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